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2010-12-05

日本人として今回の著作権法改正に反対する理由

朝日新聞によると、日本版DMCAとも言える法案が文化庁から提案されようとしている
--- 引用 ---
DVDやブルーレイなどに収録されている市販の映画やテレビドラマなどの映像ソフトをコピー(複製)する行為は、家庭内であっても違法になりそうだ。暗号化技術を使って保護されているソフトが対象で、保護を破るプログラムの製造や配布も禁止される。ネット上にあふれる「海賊版」を抑制するのが狙い。文化庁が3日、方針を固めた。
これは、映画会社に一時的な利益をもたらすかも知れないが、社会にとって如何に弊害をもたらす行為かということを、文化庁はまるで分かっていない。ソフトウェア産業が萎縮するだけでなく、利用者にとっても、そして本来利益を享受できるはずだった利権者側にとっても最終的には不利益となるであろう法案である。一体誰が得をするというのだろうか?

今日は、如何にこの法案が間違っているかということについて論じようと思う。

ユーザーが被る不利益

DVDのデータは(一応)暗号化されているが、当然ながらDVDの再生を行うには暗号の復号を行う必要がある。つまり、再生ソフトや再生機を作成するには、暗号解読ソフトの作成が必須となる。それが法律で規制されてしまったなら、メーカーは自由に製品を生産できなくなり、結果として再生ソフトや再生機は政府によって認められたものだけしか製造できなくなってしまうだろう。つまり、これまでパソコンに取り込んでよりデータ効率の良いフォーマットに変換したり、さらにサイズを圧縮してiPod/iPhone/Androidなどへ転送するといった楽しみ方が出来なくなるということだ。

もしも映像をDVDデッキでしか再生できなくなってしまったら?

想像してみて欲しい。専用のハードウェアでしかDVDが再生出来ないという状況を。それが如何に不便で、ユーザーの不利益になってしまうかということを。そもそも、ユーザーがDVDを購入した場合、ユーザーはそのデータを購入したことになるので、ユーザーはそれを自由に再生する権利を持つはずである。だが、このような法案が通ってしまうと、ユーザーは間接的にであるが「自由にDVDを再生する権利」を失ってしまうことになるだろう。

問題はそれだけではない。もし何らかの形で再生する機器やソフトウェアの生産が制限されてしまったら、それが参入障壁となり、再生するソフトウェアやハードウェアの価格の高騰に繋がってしまうだろう。

再生が不便になり、再生機の価格も高騰してしまうことによって、ユーザーには何のメリットがあるというのだろう?

暗号化による技術的限界

そもそもの疑問として、DVDは暗号と呼べるのかどうかという問題がある。通常、暗号化と言えば復号に用いる鍵があって初めて成り立つものであるが、DVDのデータを復号するには、ある規則に従ってデータを変換すれば良いだけである。再生ソフトさえあれば誰にでも復号できてしまうものを、暗号技術と呼んでもいいのだろうか?個人的には、このようなDRM技術は暗号化と言うべきではないと思っている。

「オープンソースDRM」の不可能性についてというエントリでは、次のような説明がなされている。

--- 引用 ---そもそも、「オープンソースDRM」などというものは原理的にあり得ないと私は考える。理由は簡単で、いかに暗号化したところで、最終的には必ず消費者の手に復号化されたコンテンツが渡るからだ(さもなくば映画は見られないし、音楽も聴けない)。そして、どこかの時点で復号化されたコンテンツが消費者の手元に存在する以上、それをそのまま保存するようクライアント(プレーヤ)をいじってやればDRMは意味を為さなくなる。そうやって保存されたものはもちろん復号化済みなので、改めて暗号化しない限り第三者への流通も可能だからだ。

つまり、再生するためのソフトウェアであっても、それは容易にDRM解除だけのために利用することが可能なのである。そうなると、そもそも「再生ソフトウェアの作成」そのものが出来なくなる。最悪のシナリオは「オープンソース実装だけ」が認められないというものだ。機能的に「再生」しか出来ないソフトウェアをプロプラで配布すれば、「データ変換」や「DRM解除」などは防ぐことが出来るだろう。だが、オープンソース実装が許されないとなると、当然ながらソフトウェア開発のためのコストはかさんでしまうことになるので、その結果ソフトウェアの価格高騰に繋がってしまう。

このように技術的に破綻している「DRM」というシロモノをそのような歪んだ法律で押し付けるのであれば、コンテンツ提供者側が再生ソフトや再生機などの開発者側に対して補償金を支払うべきである。でなければ、ユーザーが再生ソフトや再生機の取得に対して負担すべき価格の向上を埋め合わせることが出来ないからだ。

海賊行為という誤ったキャンペーン

記事でも「海賊版」という言葉が使われているが、これはこれまで利権者側が行なってきたネガティブキャンペーンの結果であり、我々一般市民はそのような言葉を日常的に使うべきではない。もしこの法案が通ってしまえば、家庭内でバックアップ目的で行うコピーであっても「海賊行為」と呼ばれるようになってしまうだろう。

本来、デジタルコピーはコンピュータが日常的に行う操作である。クルマのアクセルを踏むと前に進むのと同じぐらい、水道の蛇口をひねると水が出るのと同じぐらい、コンピュータにとっては根源的な機能である。(当然コーラを飲むとゲップが出るのと同じぐらい当たり前のことでもある!>全国のジョジョファンに告ぐ)そのように当たり前の機能を使うだけで、あなたはたちまち「海賊」と見なされてしまうことになるのだ。「船に乗り込んで乗客を殺傷したり金品を強奪したり、あるいは人質にとって立てこもる」といった行為と倫理的に同じであると見なされてしまうのである。ソマリア沖に出没する悪人たちと同じでだと言われてしまうのである。

我々は海賊であるか?いや、断じてそうではないはずだ。

他者の著作物を無断でコピーして販売、流通させる行為は「著作権法違反」ないしは「違法コピー」であり、確かに犯罪である。だが、決してそれは「海賊行為」であるはずがない。記事には、家庭内でのコピーが海賊版流通の防止に繋がると書かれている。家庭内で合法的に行うコピーが、「海賊」に加担する行為であると言ってるのである。そのように市民から当然の権利を取り上げ、海賊と同じであるかのように貶める法案は、絶対に通してはならないのである。

GPLv3の素晴らしさ

DRMの問題にいち早く対応し、ロビー活動を行って来た代表的な団体として、フリーソフトウェア財団(FSF)があることを忘れてはならない。FSFが2007年にリリースしたGPLv3では、「DRMの解除を禁止しない」という条項が盛り込まれている。DRMの法律による保護はフリーソフトウェアおよびオープンソースにとって有害以外の何者でもなく、既に散々議論されて来たのだ。しかも有害性が周知され、GPLv3に条項として盛り込まれることになったのである。

日本でこのような法案を国会で議論しようとすることはまさに周回遅れであると言えよう。

著作権保護の意味

なぜ著作権は法律で保護されなければならないのか?

今回のように、著作権法にメスを入れようとする場合、しかも明らかに不利益になるには、我々市民は改めて法律の意義を考える必要がある。法律で著作権を保護するべきだという根拠は、「そのほうが社会全体にとって利益があるから」ということであるべきで、「特定の団体に利益をもたらすから」という類のものであってはならない。言い換えると、規制を強化することで社会全体が潤うのであればそうすべきだし、もし特定の団体や業界だけが利益を享受して社会全体としてはマイナスになるようであれば新たな規制は設けるべきではない。

社会全体にとっての利益とはどのようなものだろうか?すぐに考えられるものとしては、例えば次のようなものが挙げられるだろう。
  1. 世の中が便利になる。つまり、コンテンツの再生が場所や時間を選ばず容易に出来るようになる。
  2. コンテンツ作成や流通に掛かるコストが限界近くまで下がり、ユーザーがそれらを入手しやすくなる。
  3. 文化的なコンテンツが多く流通することにより、市民の文化レベルが向上する。
  4. 文化レベルが向上することにより、さらに良質なコンテンツが生産される。
DRMの保護によって、このような利益が社会にもたらされるのだろうか?

逆の状況になってしまった時のことを考えてみよう。DRMの保護が強化され、DVD再生機器やDVDそのものの価格が高騰し、市民があまり映画や映像を楽しまなくなった世界のことを。利権者の、すなわち映画会社の利益は確保されるかもしれない。だが、市民から映画に触れる機械を奪うことは文化レベルの後退に繋がるだろうし、そうなればただでさえ、(アニメ以外では)大して世界的に成功していない日本のコンテンツ産業が打撃を受けてしまうのは必至であろう。

法律は、常に社会全体の利益のためになるように作られなければいけないのである。

黒船はまもなく到来する

DRMのことをあまり心配しなくても、もしかすると人々はもうDVDをあまり買わなくなるかも知れない。今や映像はインターネット上に溢れており、それを集約的に、より容易に手に入れることが出来る時代がやってこようとしている。そう、Google TVである。(一応オマケとしてApple TVも挙げておく。)

日本が周回遅れでDRMの審議をしている間に、世界は既に次のビジネスモデルを撃ち出してきているのだ。DRMでも日本をガラパゴス化させて良いものなのか!?

DRMに頼らなければ成立しないような会社を存続させる意味は何か?そのような会社は淘汰されないと、世界に遅れをとるだけではないのか?大きく国益を損なうのではないか?

まとめ

法律によるDRMの保護は、ユーザーにとってはもちろん、ソフトウェア製作者を萎縮させ、さらには将来的にはコンテンツ産業全体を後退させる可能性がある。映画会社などの利権者は、一時的には利益を享受できるかも知れないが、長い目でみた場合、産業の衰退によって最終的には「創り手の不在」として自らの不利益として跳ね返って来てしまうだろう。誰にとっての利益にもならないのである。

本当に日本のコンテンツ産業の未来を大事にしたいならば、DRMという陳腐な技術に頼るべきではない。CDやDVDを販売するというのはもはや過去の遺物とも言えるビジネスモデルであり、DRMに頼らない経営をするべきなのである。DRMに頼らなければビジネスが出来ないというのであれば、どうぞ会社をたたんでくれと言いたい。誰も映画や音楽を作ることは強制しないし、他にいくらでも仕事はある。特定の人たちの既得権を守るために、法律で日本全体を歪めてしまうのは絶対に間違っているのである。

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